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「KAI-YOU Premium」創刊イベントに寄せて 〜マーケティングと批評との間で〜

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ポップカルチャーの未来に種を蒔く」。

3月にリリースしたばかりの新メディア「KAI-YOU Premium」のテーマを一言で表せばこうなる。

とても大袈裟で傲慢に聞こえることだろうが、これが偽らざる編集長・新見直としての自分の思いだ。

ポップカルチャーの未来に種を蒔く」ためには、単に消費するだけではなくて、創作するか批評するか、そのどっちかしかないと考えている。

そして創作するだけでも、批評するだけでも、文化の未来は豊かにならない。批評もできる健全な風土があってこそ文化は自生──あくまで自生だが──するもので、だからどちらも必ず必要だ。

前回、弊社代表が会社の事業、メディア環境という側面から、なぜKAI-YOUが有料でのサブスクリプション型メディア「KAI-YOU Premium」を立ち上げたのかについて語った。

KAI-YOU Premiumをリリースして3ヶ月の手応えと課題、そして── - KAI-YOU BLOG

ならば自分は、編集長として個人的な思いを綴りたい。

特に、音楽ジャーナリストの柴那典さんとアニメを中心にしたエンタメ系のジャーナリスト・数土直志さんという、全くジャンルの異なるお2人に創刊イベントにご登壇いただくにあたって、議論の補助線としたい(イベント詳細)。

ただし、ここに綴るものは完全に自分1人の思いで、お二人はまた全く別の意見をお持ちであることと思うため、文責はすべて自分にあることを明言しておく。

(以下、敬称略)

面白いかわからないけどワンダーだった

公開初日、『海獣の子供』を観に行った。

米津玄師が原作を解釈した「海の幽霊」はやはり凄まじく、シンコペーションが使われていて、オーケストラ演奏による壮大なのにところどころ脱臼した変態的な歌は心をざわめかせる。

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こんな、尋常ならざる心象風景を表現できる歌心を持った日本人歌手を俺はほかに宇多田ヒカル小袋成彬くらいしか思い浮かべられない。

しかもイントロがなくてサビからサビにすぐたどり着くから、バラード特有の「サビ早よ!」みたいな焦燥感はないけど危うい緊張感が維持されたまま最後まであっという間に聴き込んでしまう。

コンテンツのサイクルが極端に短くなってYouTubeの5分動画の合間に挟まれる5秒CMさえ待つのがじれったい現代っ子たる我々にぶっ刺さるわけだ。

映画の公開前から「海の幽霊」の反響はとんでもないもので、公開初日、米津ファンと思しき少年少女の姿も多かった。

怒涛の2時間を駆け抜けてスクリーンに幕がおりた瞬間、劇場は奇妙なざわめきに包まれた。「なんか…凄かったけど…難しかった…」「え、まじでわからない…」。困惑する観客が、その戸惑いと衝撃をそこかしこで口にしていた。

わかるよ、俺も同じ気持ちだ。こんな映画、どう受け止めていいのか全くわからない。そして(おそらくその時にいた米津ファンと同じく)ある“肩透かしを食らった”感覚を否定できなかった。

後日、KAI-YOU社内で『海獣の子供』の話題になり、まだ鑑賞していなかった代表に「面白かった?」と聞かれた時、なんて答えるべきかしばらく考え込んで俺はこう答えた。

面白かったか?って質問はむずいな…。強いて言うなら、『interesting』かはわかんないけど『Wonder』だった

居心地のいいコンテンツの条件

感情の置きどころを用意しておいてくれるコンテンツは不安がなくて居心地がいい

君の名は。』はその意味で最高の映画だった。

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インタビューでたびたび語られてるように、『君の名は。』は、新海誠RADWIMPSによる共作と言ってもいいほど、音楽とストーリーが密に結びついた稀有な作品だ。

脚本段階で、RADWIMPS野田洋次郎が作品からインスピレーションを受けて制作した曲を新海誠が聴き、それがストーリーや絵作りにも影響を及ぼしていった。そのラリーを何度も続けながら完成した『君の名は。』は、アニメとそれを彩る音楽ではなく、音楽を含めた一つの物語として編み込まれていた。

焦燥感を覚えるシーン、メランコリックな感情をかきたてるシーン、終幕に向けて感情をドライブさせるシーン。

主題歌を含めた劇伴全27曲の音楽は、「今このシーンを鑑賞者はどう受け止めるべきか」という感情の道筋を舗装するという役割を十二分に果たしている。だからサントラを聴くだけで、物語がありありと蘇る。

小賢しいツッコミどころがないとは言わないが、その意味で実に理路整然とした映画だった。

かつての新海誠作品には歪な、粘着質な手触りがあった。それは背景への眼差し一つとってもそうだし、僕と君で閉じられた世界観や過剰に反復されるボーイ(ドント)ミーツガールという物語構造をとってもそうだ。

そして、『君の名は。』の大ヒットを支えたRADWIMPSにも、全く同じ思いを抱いている。まだ俺が学生だった頃に聴いていたRADWIMPSも、やっぱり偏執的で粘着質な世界観が色濃く出ていた。

単に古参ぶりたいわけじゃなく、懐古したいわけでもない。

君の名は。』にそれがなかったとも言わない。背景描写にも、例えば三葉への眼差しにも、新海誠らしさは存在する。

前前前世』も然り。「君の前前前世から僕は 君を探しはじめたよ」の歌詞、確かに一見大衆的な甘いロマンチックなフレーズながら、言葉を選ばずに言えばある種の“気持ち悪さ”のようなものの残滓はある。

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一万年と二千年前から愛してる」でお馴染みの2000年代を代表するアニソンを彷彿させる“ぶっちゃけダセーけどロマンチックで人の心を掴むストレートな表現”というものがそこにはあるのだけど、例えば最初期の『もしも』のような一方的な気持ちを歌い上げるみっともなさとは最早無縁のものだ(もちろん『前前前世』以前から『いいんですか?』みたいな歯の浮くような曲もあるが)。

人は変わる。作家の作家性も当然変化する。それだけの話なのだけど、それらは意図されて、編まれるべくして編まれたものであるということだ。

君の名は。』はとてもわかりやすい。このシーンで自分が何を思えばいいか、感情を、気分を、音楽が導いてくれる。

俺はまだ執筆時点で鑑賞してないが、奇しくもこのブログを書いてる今日(執筆は7月19日)公開となった新海誠の最新作『天気の子』。そのインタビューで彼はこう答えている。

洋次郎さんのことは、人としても好きだし、彼の作るものが本当に好きです。「この映画はこういう気分なんだ」っていうことを、彼の曲が教えてくれた部分がすごくたくさんありました。(「『君の名は。』に怒った人をもっと怒らせたい」――新海誠が新作に込めた覚悟 - Yahoo!ニュース

君の名は。』も同じく、つくり手である新海誠野田洋次郎がそれぞれ高めあった感情や気分が映画を最初から最後まで交通整理している。受け手の感情や気分を音楽が規定してくれていて、そのわかりやすさ、調和、居心地の良さがヒットの要因の一つにある(もちろん物語構造にも大きな要因があるんだけど本旨からズレるので省く)。

音楽とアニメを強く結び付けた川村元気

君の名は。』を手がけたプロデューサーの川村元気は、小説版『君の名は。』の解説でこう記している。

美しく壮大な世界で、すれちがう少年少女のラブストーリーを新海誠は描いてきた。最新作は「新海誠のベスト盤」にして欲しい、と僕は伝えた。(『小説 君の名は。』解説より)

彼らの作家性をドライブさせたファクターの一つは川村元気という存在だ。

川村元気は、ベスト盤にするにあたってより音楽的な映画をつくることを提案し、そして彼が新海誠野田洋次郎を結びつけた。解説の中で、『君の名は。』が新海誠野田洋次郎との共作であるかのような裏側を強調している。

すれちがうふたりの物語を、どこまでも大きな世界で描く。新海誠野田洋次郎。(同上)

川村元気はプロデューサーであり、小説家でもある。『世界から猫が消えたなら』や『億男』は大ヒットし、映像化もされた。その彼が、『君の名は。』直後に出版したのが『四月になれば彼女は』という恋愛小説だった。

「恋愛小説が売れない」という話を聞いた川村元気が不思議に思い、周囲の男女100人に話を聞いたところ、誰も熱烈な恋をしていないということが取材を通して明らかになり、この執筆を決めたと以前インタビューで語っている(偶然にも、聞き手は柴さんだった)。

彼が取り組んだ、“なぜ人は人を愛するのか”というテーマ。そしてなぜ今、人は恋に落ちないのかという問い。そこに人々のリアルがあって、小説家としてそれを描くべきだと思ったと彼は言う。

これはいわば、マーケティングだ。

顧客が何を求めているかを知り、それによって顧客がどんな感情を抱くかを想定しながら、顧客が求めるニーズに沿って提供する。正しい市場分析である。

マーケティング的な発想によって生まれ、ヒットするコンテンツ。肌感でしかないが、その傾向は近年ますます強くなっているように感じる。

受け取った際の感情のレールまで敷かれているものは誰だって心地いい。

供給過多で、処理しきれないほどの情報やコンテンツに接している現在、その感覚はある程度、共感されるように思う。

とらドラ!』で思春期の微細な感情の揺れ動きを引き算の演出で描いた長井龍雪は、その後『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』や『心が叫びたがってるんだ。』 でより有名になっていくが、今年10月には劇場版最新作『空の青さを知る人よ』が公開となる。

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『空の青さを知る人よ』の主題歌はあいみょんが担当することが発表された。あいみょんが寄せたコメントによると、彼女も単なる主題歌の提供ではなく、作品づくりに関わっていることがわかる。

監督やスタッフの皆さんに曲を聞いていただいた時に、「この楽曲と寄り沿いながら映画を作っていきたい」と言ってくださり、映画づくりの一員として携われたことを、とてもありがたいなと思いました。(あいみょんが『空の青さを知る人よ』主題歌 『あの花』長井龍雪の新作

そしてやはり、本作にも川村元気の名前を見つけた。

受け手に委ねる作品

海獣の子供』を観た時に受け取った、不思議な感覚。それは、感情の置きどころのなさだった。

美しくて怖い、自然への畏敬。祝祭的な、あまりに奔放な想像力の洪水。

それらを前に、自分がどう受け止めればいいのかわからない、寄る辺の無さ。そうそう味わうことができない、途轍もない体験だった。

原作ファンとして、思わないところが決してなかったわけじゃない。

原作で描かれた、海と空の底の知れなさ、琉花のルーツ…それらを省いて『海獣の子供』は成立するだろうか? 原作者の五十嵐大介が描く自然科学とセンスオブワンダーとのバランス感覚に対して、STUDIO4℃の提示したそれはあまりに後者に振り切れ過ぎていないだろうか? それでいて、中途半端に説明的なモノローグがひどく浮いていて、それも気にかかった。

言葉を選ばずに言えば、原作と比べた時、哲学的には大きく後退していた。これはかつて押井守がハリウッド版『ゴースト・イン・ザ・シェル』(攻殻機動隊)を評したフレーズだが、それと同じ感覚を抱いた。

ただ桁違いだったのは、物語の根幹を履き違えて説得力に欠けるCGで構成された実写版攻殻と比べて、『海獣の子供』は、命の途方もなさ、自然の得体の知れなさを漫画以上にアニメーションとして説得的に描き出していた点だ。

その体験に貢献していたのは映像は言うまでもなく、音楽が多大な役割を果たしていた。

音楽を手がけた久石譲メイキングで、「状況に付けるか、心情に付けるか」のどちらかになりがちな映画音楽のセオリーから距離をとって、むしろ観客が主体となってイメージし、音楽と映像が共存できるように音をつくっていったと語っている。

映画音楽が効果音楽の延長になりがちな現状を踏まえながら、「観る人のイマジネーションをきちんと駆り立てる」作品づくりに伴走したというその姿勢は、作品に顕著に表現されている。

海獣の子供』は、奇妙な劇伴だった。ジブリ映画の数々を手がけてきた久石譲作品の中でも随一なのではないかと感じるほどに(ネタバレは避けるが、特に良くも悪くも顕著だったのはムックリという楽器が奏でられるあのシーンだろう)。

冒頭で“肩透かしを食らった”感覚を味わったと書いたが、それは、「海の幽霊」の使われ方だった。

あれだけ期待感を煽られていた楽曲なのに、本編では一度も流れることはなかった。

考えれば主題歌としては当たり前のことだが、どこかでやはり自分の中に期待があったのだろう。一緒に鑑賞した友達も全く同じことを口にした。

荘厳な「海の幽霊」が作中で流れ、劇的な効果を生んでくれるはず。

感情の動きを決めてくれるコンテンツに慣れきっていて、わかりやすく感動させてほしがっていた自分がいた。そこから逸脱して、受け手に解釈を委ねるコンテンツと向き合うのは正直体力が要る。

改めてそれに気付かせてくれる作品だったこと、そして今や日本のポップアイコンの1人として存在感を発揮する米津玄師を起用して、本来出会うはずのなかった人にこの物語を届けたこと。

それら全てをして俺は「WONDER」だったと表現した。

作中では流れなかったものの、もちろん「海の幽霊」の効果はそれでもなお劇的だった。

受け手を突き放すところがあるのが本編だったとしたら、突き放した受け手に手を差し伸べたのは少なくとも「海の幽霊」だった。そこには米津玄師の解釈があり、残された者の視点での心情とも言うべきものが表現されている。『海獣の子供』を鑑賞した後、「海の幽霊」の曲はそれまでと違う、さらに多層的な響きを帯びる。

マーケティングと批評

話を戻そう。“ポップカルチャーの未来に種を蒔く”ことを目標にした「KAI-YOU Premium」には、批評が必要だとは冒頭で述べた通り。

そして、マーケティングと批評は本質的に食い合わせが悪い

なぜならマーケティングとは上に綴った通り、ニーズに対して最適なものを提供し、その結果を受け取った顧客の感情の道筋をも保証するもので、批評とは、表層に疑いの目を向けて、時にはつくり手の意図から作品を引き剥がして、表象として具現化したものを考える所作に他ならないからだ。

批評とは、今こう見えているものに別の視座を与えたらこういう見え方に変わるだとか、作り手の意図はこうだけど表象としての作品に表れているものは実はこうではないか、とこねくり回しながら考え続け、時には時代の欲望をそこに見て取ったり、世相を映す鏡として向き合ったりするものだ。

枝葉を削ぎ純度をあげるのがマーケティングの欲望だとしたら、意味をハックして多層化するのが批評の欲望だ。

しかし今は、「どうしてこの作品がヒットしたのか?」という産業を論じることでしか、批評というものは成立しなくなっている。そう語ったのは、思想家・東浩紀だった。

「KAI-YOU Premium」リリースにあたって、ローンチタイトルとしてどうしてもやらせてほしいと強く希望して実現できたインタビューだ。

premium.kai-you.net

彼はその中で、再三にわたって自分が食い下がった「批評や思想の価値」について、大いに呆れながらも──それはおそらくインタビューにも表れていることと思う──語ってくれた。(KAI-YOUがポップカルチャーと定義するところの)今のサブカルチャーには興味がない。批評はそもそも産業論しか成立せず、自分は最早関わるつもりはない、と(もちろんそれだけではないが)。

その数ヶ月後には、「i-D」で掲載された「ファンカルチャーは批評のあり方をどう変えたか?」というコラムが大きな反響を呼んだ(原文は i-D UK)。

SNSでファンカルチャーが増大した結果、今や作家やクリエイターが批評家やメディアよりもずっと強大な影響力を持つことになった。クリエイターは熱心なファンをスタンドのように引き連れているため、下手な批判を行おうものなら袋叩きにあってしまう。

そこでは、批判的な批評家はその存在や言説を許されない、という窮屈な現状分析が綴られている。

2年前、俺は今日と同じような題材で今日と同じようなことをこのブログに書いていた。

「言葉で表すことの意義が失われている」とは僕は思わない。けれど、求められる言葉の質は変わったような気がする。

「何かを教える/啓蒙する言葉」ではなくて「言語化される以前の未分化の感情を自分の代わりに言い表してくれる言葉」がより求められるようになってきたのではないか、という感触を持っている。

それらはどちらも「批評」で、別に昔から、全く想像も及ばなかった視座から新たな解釈に気付かせてくれる「批評」もあれば、「そうなんだよ!」というなんとーなくみんなが抱いてる感覚や感情を的確に言語化してくれる「批評」もあった。

けれど、今は後者への比重が増しているのではないか、という気がする。

kai-you.hatenablog.com

批判も批評の機能の一つだったはずだが、今“許されている”機能は共感を呼ぶ批評だけだ。その感覚は益々強まっている。

POPに手を伸ばすために

誤解しないでほしい。本エントリで言及したあらゆる作品、あらゆるクリエイターはそれぞれ独自に素晴らしく、だからこそ論じる価値がある。

そしてマーケティングを否定するつもりは毛頭なく、マーケティングと批評という単純な二項対立の話でもない。

KAI-YOUの語源は「界遊」である、ということを知る読者はもうほとんどいないかもしれない。

今から11年前、学生時代に「世界と遊ぶ」という意味の文芸誌『界遊』を創刊し、それが母体になって、今のKAI-YOUという法人の形になっていった。

創刊のきっかけはこうだ。

『界遊』創刊を決めた元代表と俺は、文学部日本文学科の同じゼミ生だった。

今はどうか知らないが、当時、うちの大学の文学部は、「とりあえず大学を出ておきたい」みたいなモラトリアム謳歌組の根城になっていて、ゼミの半数くらいは、文学には興味ないけど卒業のために単位は欲しいですという学生だった。

文学タカ派(!)だった元代表の彼はそれが許せず、事あるごとに彼らの不真面目さを弾劾した。

そのどちらにも属さなかった俺には、どうしてもそれが解せなかった。腐っても文学部に籍を置いている以上、どれだけ無関心だろうが、毎日のように作品に触れる機会があり、読み込んで論文を書き続けている日々はみんな同じだ。そして、そんな彼らの興味さえひけないということは、それは文学の敗北ではないか。俺はそう思い、彼にその違和感をぶつけた。彼も徐々にその考えに共感してくれるようになった。

問題は次のアクションだった。文学は敗北した。だったら自分たちで、本来は広く届き得るはずのコンテンツを“POP”と定義し、それを届ける方法をつくろうと今度は彼が俺に呼びかけてきた。最初こそ渋ったが、そのうち覚悟を決めた。

それからがむしゃらにやってきて、気付けば11年。志は(きっと)同じながら別のアプローチをとることにした元代表の彼は独立し、創刊メンバーの1人である現代表が経営能力の欠如した俺の代わりに会社を率いてくれ、今こうしてこの場所にいる。

そんな成り立ちのKAI-YOUの編集長だからこそ、今もその考えは変わらず、売れること、支持されることも“POP”を満たすために必要な条件だと思っている。それは、同時代性を獲得しているということだからだ。それを支えるマーケティングを否定することはPOPを否定することだ。

しかし、この10年で状況は大きく変わった。

今がそうだということではないが、もしも今後さらにマーケティングが徹底され、受け手の感情さえつくり手が規定しなければヒットに結びつかないという環境になった時、そこに批評が果たす役割はあるだろうか。

時にはつくり手の意図から作品をひっぺがすことさえする批評は、マーケティングの意図やファンダムを乗り越えて、POPに手を伸ばすため、誰かに届けるための言葉を持てるだろうか。

その問いについて、俺は自分なりの考えを持っているが、答えは持っていない。

「KAI-YOU Premium」は、勝手な言い方をすればその考えを実践するための実験でもある。

創刊イベントにお呼びした、それぞれ立場の異なるお二人に胸をお借りするつもりで、その問いをぶつけてみるつもりだ。

長くなってしまったが、この話は一つの切り口に過ぎない。

編集にかまけて所信表明さえ怠ってきた自分の問題意識を、創刊イベントの告知にかえて。

まだ席たくさん用意できるのでお時間ある方は是非いらしてください。

KAI-YOU Premium presents『ポップカルチャーの未来とメディアの役割』

日 時:2019年8月5日(月)19:00開場 19:30開始

場 所:LOFT9 Shibuya

出演者:柴 那典氏、数土直志氏、新見直(KAI-YOU Premium編集長)

内 容

19:30~ 柴 那典氏×数土直志氏対談      ※司会 新見直

21:00~ 交流会(1時間)

入場料:Premium会員 無料 非会員 2000円 ※飲食代別途

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