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全然記憶にない文章を晒せと言われたので7年前の文章晒してみる

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代表・米村と副代表・新見の連載がスタート。ふたりが毎週火曜に週替りでブログを書いていきます!

代表/副代表が普段考えていること」「お互いが書いた記事への意見」「お互いに言いたいけど言いにくいこと」などなどが書かれていきます。

7年前に書いたけど全然記憶にない文章を晒せと言われたので晒してみる

 にいみなお(Twitter@NAO_NIM


お久しぶりです。新見です。

前回、代表のわいがちゃんよねからお題が出されました。「KAI-YOU 代表副代表交換日記」と題したリレーブログにして初めてのお題!

「次回は、このブログでめっちゃ良文を書き続けているCOOの新見直くんが8年前に書いたテキストを晒してくれます」( KAI-YOU BLOGより)

ちゃんよねは、8年前に書いた文章を紹介しつつ、

“そのコラムが、もう本当に「誰が書いたんだこれ・・・」というくらいに書いた記憶がなく、また現在の自分では絶対に書かないような文体で書かれていたので、わりと黒歴史とも感じることなく読んでしまった”とか呑気に書いてましたが…

正直、俺はまぢムリ! 恥ずかしくて人に見せらんない!!

f:id:KAI-YOU:20081012115435j:plain7年前の新見直


でも先週の更新も飛ばしてしまったので、観念して過去の同人誌(KAI-YOUの母体になってる『界遊』)から引っ張り出してきました。

基本的に自分の文章を読み返すことをしないのでどれも新鮮でした。彼と同じく「本当に俺が書いたのか?」って一瞬思うものの、ちゃんよねと違う点は、当時から文体はあんまり変わってなくて、いかにも自分が好きに書いたっぽい迂遠な文章だったのでピンときました。

最近、「ポスト・トゥルース」とか「オルタナティヴ・ファクト」みたいな議論が活発になされています。でも、「ポスト・トゥルース」はわかるんだけど「オルタナティヴ・ファクト」って言葉がさっぱり理解できなくてどうしても消化できない。

だって、真実(トゥルース)は確かにいかようにも解釈できるけど、客観的な事実(ファクト)については、報道に偽りがあったり解明できない部分があったとしても起こった出来事自体は揺るぎないのでは? という点が普通に疑問だ。

突き詰めると「ファクト」が持つニュアンスの定義の問題になってしまうのかもしれないけど。とか最近も思ってたところ、昔から「真実」を巡るあれやこれやに関心を持ってたんだなーってことが、今回の『機動旅団八福神』のレビューからうかがえたので、これを選びました。


2010年発行の雑誌なので、正確には7年前の文章。意味が通りづらい箇所だけ手を加えました。ちなみに著者の福島聡及び『機動旅団八福神』は俺は大好きだけど万人ウケはしないかもしれないので悪しからず。

福島聡で学ぶ00年代の真実

f:id:KAI-YOU:20170804184016j:plain界遊004

<真実はいつも一つだ>と。それは正しい。

人の数だけ真実はある。<人は一人では生きていけない>も<結局人は一人だ>もどちらも真実だーーそう信じる人にとっては。

例えば行動を起こす時、どんな迷いがあってもその時その人にとって自分の決断は絶対の真実だ。騙し絵を目にした時と同様、何を真実とするかによって目に映る光景は姿を変える。<真実はいつも(自分にとって)一つだ>。

機動旅団八福神』は、中国占領下の日本がアメリカと繰り広げる戦争を舞台に、登場人物たちが肉迫しようともがくそれぞれ個別の真実と、より大局的な事実を巡る群雄劇だ。

彼らは、ひどく曖昧な言葉を語る。

「別に/一所懸命アレして結果こんななんだよ これ以上何をどうすればアレなんだよ/言葉になんかなんねえッ/自分だけ助かってスンマセンってナニをさ ひ弱俺はさ 一体どこにぶちまけりゃいいんだ?/言葉など/言葉にしないとダメか?」

何かを語り尽くすことなどできないという意味で、<語る>とは<騙る>だ。偽るための言葉を前にして、偽るまいとする意思は言葉を置いて行為することだとでも言うかのように、時に言葉を曖昧なまま行為し、時に意識的に言葉を騙る彼らは、安直な真実を良しとせずにあがき続ける。終盤までは。

例えば、正しいことをするために外面の「嘘の顔」を張り付け、誰も殺さず「手を汚さない」誓いを胸に「人を助ける」部隊を目指すのが、主人公にして日本軍「福神隊」隊長の名取。彼は、戦争を終わらせるという「嘘偽りない」信念から「あえてヒーロー」という虚像を演じて「大衆を扇動」しようと、軍上層部さえ丸め込んでみせる。

例えば、高い防御力を有した日本の人型兵器「福神」に乗り込み、戦争に身を投じる隊員たち。一方、「人道的な戦争」を掲げたアメリカが出動させていたのは、実は犯罪者の脳髄を利用した無人兵器だったことが判明していく。彼らにとって、現に目の前で起きている戦争さえ、「戦争ごっこ」や「戦争のようなモン」あるいは「負けたら死んじゃう」命をやりとりする正しい戦争、「ドンパチやって」る「カッコイイ本物の戦争」と、それぞれの価値観で騙られる本作において、徹底的にすれ違い続けるそれぞれの真実は交錯することがない。

しかし、戦争終結後、一人ひとりが戦争を通した自分の体験を言葉にする。仲間・青春・生きる意味・自分探し・宝物……引き出された言葉のどれもが半ば虚ろに響くのは、「目の前で積み重なる戦争という圧倒的な事実をどう受け止めるか」について自覚的に曖昧に振舞ってきた彼らが一転して収まりが良い言葉を騙り出すからだ。

何が真実で何が偽りか、自分が何を思っているのかさえわからないという態度を貫いた誠実な彼らが、「よくある話」にすぎないとしながらもありきたりな言葉で戦争を総括し、「自分にとって嘘つくのはよくない」と口にする。欺瞞的に。

最終話の章題が「スタンドアローン」である本作は一見、自立を促す成長物語にも読める。しかし言葉に先んじようとあえいでいた彼らが素直に言葉に回帰した時から、もっと言えば作中で名取が<敵を>(アメリカの隊長を)その手で殺めて戦争を終わらせたその時から、不穏な虚しさが物語を包む。

名取のその<英断>を目撃した隊員・半井の虚ろな目に象徴的なその空虚さは、漫画という枠組みの中ではっきりと表れる。

<それぞれに真実がある>という正しさは、当たり前すぎてどう機能しようもない。すべてを虚しくする真実とは結局、そんな風に自己完結的な個別性をありのまま認める寛大な、それゆえにつまらない語りのことだ。

<虚しさ>を豊かに描き出す物語は、描くべき<豊かさ>などもともと存在しないという残酷なリアリティーに支えられている。真実を巡る虚構の物語が反転してえぐり出す、「なんでもあり」の「ドッキリ」みたいな嘘臭い現実には嘘がない。

だから何だって、まあ「虚ろな現実感」なんて状況論こそ、00年代を一つの作品で総括しようっていう乱暴な試みとしてはいかにもありふれた、手垢まみれの騙りだ。

それぞれの真実を振りかざす。みんな自由だ。肩を怒らせて対立し錯綜し、それでいて定位置から一歩も逸れずに誰とも肩がぶつかることはないまますれ違うーー本作はそんな状況を容赦なく突き付けているように俺には思えたってだけのアレ。
(2010年発行『界遊004』「カイユークロスレビュー」より)

文章自体はやっぱり覚えてなかったけど、絶対これ俺が書いたな・・・。

なぜなら、「何もない」ことを長大な小説として完成させた三島由紀夫の遺作『豊饒の海』が、俺の大学の卒論のテーマだったからです。

まじで心臓に悪いので過去の文章の掲載はこれっきりにしたい。

次回は、わいがちゃんよねさんが多分オルタナティヴ・ファクトについて書いてくれるかもしれない。

新見編集長の過去の文章が読みたい人はこちら!

界遊004

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