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筒井康隆が「やってみた」世界線に生まれてきて良かった

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f:id:KAI-YOU:20170301160531j:plain 筒城灯士郎『ビアンカ・オーバーステップ』(星海社FICTIONS)

代表・米村と副代表・新見の連載がスタート。ふたりが毎週火曜に週替りでブログを書いていきます!

代表/副代表が普段考えていること」「お互いが書いた記事への意見」「お互いに言いたいけど言いにくいこと」などなどが書かれていく予定(!)です。

筒井康隆御大が炎上している

 にいみなお(Twitter@NAO_NIM


筒井康隆御大が炎上している。

火中の栗を拾いにいくストロングスタイルでいたいわけでも炎上いっちょ噛み野郎になりたいわけでもなく、単に先日刊行された『ビアンカ・オーバーステップ』が面白すぎたので筒井康隆に触れないわけにいかないのでしょうがない。

ビアンカ・オーバーステップ(上) (星海社FICTIONS)

ビアンカ・オーバーステップ(上) (星海社FICTIONS)

筒井康隆の小説は一部しか読んでいない俺にも、確かに筒井と言えばブラック・ユーモアという理解はできるけど、くだんの慰安婦への記述がユーモアに溢れた笑える内容、つまりエンタメに昇華されているかという問題には首を傾げざるを得ない。

ただ、本人の言う通り、「本当はちょっと『炎上狙い』というところもあった」のかもしれない。

内容が内容だけに、それだけで済む話ではないだろうけど、もともと怖いもの知らずの方だったので、老いてますます健在とも言える。

誰かが書いてたけど、筒井康隆からすれば「炎上してみた」という感覚なのかもしれない。『ビアンカ・オーバースタディ』も、まさに「ラノベを書いてみた」という筒井康隆の実験だったことは、読んだ人にはよくわかる。

筒井康隆の「やってみた」

筒井康隆ラノベを書いたということで局所的に話題になった『ビアンカ・オーバースタディ』は、セルフオマージュを多様した内容で、“ラノベにありそうな”学園もののSFなんだけどエログロでメタラノベでもあり、物語がまさにドライブしようとするその瞬間に本筋とは異なる唐突なスラップスティックコメディ要素があったり、筒井康隆らしい作品だなーと思う。

そして、一番強く思ったのは、これは「時かけ』をラノベでやってみた」ってことなんじゃないかってことだった。

実験的・前衛的なものが多い筒井作品にあって、一般的には最も知名度が高いだろう『時をかける少女』は、実は「異端」と呼べる作品だ。

僕は、大林宣彦監督による『時をかける少女』を観た後で原作を読んだんだけど、確か新装版か何かのあとがきで、筒井本人が「ジュブナイル向けのSF作品として執筆したこの『時をかける少女』は、骨太な構造だけがある。だから、いろんな作家の手によって、時代時代で生まれ変わるのだ」みたいなことを綴っていた(今手元に文献がないのでうろ覚えだけど)。

時をかける少女』の原作はわりと短い作品だけど、それ単体としても、余韻を残す終わり方が印象的な、10代向けの真っ当なSFの傑作だと思う。

それが、いろんな形で映像化されて、そのたびに同時代性を色濃く反映した作品が生まれて新しいものが加えられていって、登場人物たちの系譜もできていった。「サーガ」と言ったら言い過ぎかもしれないけど、もはや自分の中では筒井版「時かけ」を起点とした「時かけ」シリーズものだと認識している。

ビアンカ・オーバーステップ』は傑作すぎたし、筒井康隆は偉大だった

ビアンカ・オーバースタディ』も、シンプルな構造だけが転がっているフレーム的な小説という印象が拭えず、だから本人による後書きでの「誰か続篇を書いてはくれまいか」という呼びかけも納得のいくものだった。

そして誕生したのが『ビアンカ・オーバーステップ』だった。詳しくはKAI-YOUの記事を読んでほしい。

この『ビアンカ・オーバーステップ』は、掛け値なしの傑作だった。奔放な想像力のたたみかけに、細かい伏線と気持ち良いくらいに広げてくれる大風呂敷、正しくメタでもありSFでもある。特に後編のぶっ飛び様は尋常じゃなく、気付けばあっという間に読破してしまっていた。

いち早く読み終わって社内で布教したのは代表の「わいがちゃんよねや」で、曰く「この人、舞城じゃねえか? とても新人だと思えない」。

確かに、舞城王太郎作品の一つの完成形と言える狂気の怪作『ディスコ探偵水曜日』ばりの頂きに手をかけた作品だった。(なんか上から目線な書き方ですいません)

ディスコ探偵水曜日(上)(新潮文庫)

ディスコ探偵水曜日(上)(新潮文庫)

ただ、出版社である星海社に取材で何度も念押ししてとった言質と、この「筒城灯士郎」という作家のあとがきを信じるなら、これまで小説を書いたこともない、全くの新人なのだそうだ。

ネタバレは避けるが、続編にあたって筒井本人が制約でガチガチにならないようにいろいろな断りを入れていたにもかかわらず、すべての伏線を回収しようという気迫に満ち、しかも「傑作を」という一番の無茶ぶりをも律儀に守ったこの作家は、一体何者なのか。

筒城灯士郎によるあとがきも味わい深いので本編を読了したら是非目を通してほしい。

とにかく読み終わった後、あらゆる疑問が浮かび、自分のところのインタビューを読み直してもいかんせん納得がいってないままだけど、それはそれとして、筒井康隆について考えていた。

言ってしまえば、これは「筒井康隆という日本が誇るSF作家を踏み台に、とんでもない新人作家が生まれた」ということになる(言い方は悪い)。

ツツイスト(筒井が大好きなファンたち)がこの事実をどう受け止めているのかわからないけど、僕には、この現象こそ面白かった。

かつて自身も、小松左京の作品に乗っかって『日本以外全部沈没』を書いてみたり、シンプルで骨太な構造を用意したことで結果的にシリーズ化していった『時かけ』を生み出してきた筒井康隆

そして、晩年(と言うと怒られるかもしれないが)になってついに、「時かけ」でやったことを今度は確信犯的に成し遂げたわけだ。「老いてますます健在」どころの話じゃない。

この点においても、『ビアンカ・オーバースタディ』を読んで「『時かけ』をラノベでやってみた」という感覚を覚えたのは、あながち間違いじゃなかったように思う。

作品を生み出した筒井康隆の手を離れて、物語自身が駆動し、増殖していくこの現象。

過去作品を土壌に、さらなる優れた作品が生み出される。この模範的なサイクル。これほど作家冥利に尽きることはないんじゃないか。

作品をちゃんと手放すことができる作家というのが、自分の中での勝手な「偉大な作家」の条件の一つなんだけど、筒井康隆はやっぱり偉大な作家だと思う。

かつて、筒井康隆の偉大さを延々と語り続けてくれた先輩がいて、今なら、その先輩の言っていた言葉をより実感できる。

この一連の現象自体が、メタフィクションを得意とする筒井康隆の掌で踊らされている感覚にさえなってきて、ゾクゾクする。

つまりどういうことかって言うと、筒井康隆が「やってみた」世界線じゃなかったら何も生まれなかったんだってこと。だからこの世界線に生まれてきて俺は嬉しい。終わり。

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